現代人の精神はITで弱るか
okatch氏から中毒気味
という言葉が出たのが僕的に少々衝撃的で、本題とは関係ないところで触発されてしまった。
「車を手に入れて足腰が弱るようなものだろうか」
このハサン氏の意見は言い得て妙だと思う。okatch氏の言うとおり、他者の生活に深く介入せずとも緩やかに繋がることが可能になった。そしてそれはとても僕らにとって楽なことだった。「弱る」という言葉を使うなら、普及すればするほど、僕の IT に関する感動は大いに弱っていったのだと思う。ただ、単にある変化に対して慣れた、という観点では何も本質は変わっていない。
やや一般論にすりかえてみると、自動車に限らず、電気・水道・ガス等のライフラインにしても、地球上のスパンで考えれば極めて限られた地域の都市生活者がそれを生活必需品であると認識しているに過ぎない。好もうと好まざると、一度ある便利な物が存在する生活を知った者にとってはもはやそれこそが日常なのだ。不便だった頃の生活のディテールは簡単に忘れることができる。
人はいつでも自分がより楽な環境に流れるものだと思う。ある時は肉体的や物質的な負担を減らすため、ある時は自らや身の回りの誰かの心を傷つけない為に。その目的を実現する何らかの手軽な手段を手に入れてしまったら、遠からずそれは生活の一部に組み込まれる。それが存在しなかった時代にも人は当然生活していたはずなのに、ある時気が付くとそれ無しの生活が困難になるといったことが起きる。
もちろん、止むを得ない事情がある場合には元の生活に戻ることは可能である。ある日突然依存の対象を永遠に失ってしまったとしても、ほとんどの人は相応の時間をかければ変化した状況に慣れることが出来る。もちろん楽な方向に流れるのとは異なり、それ相応のエネルギーや対価は必要だろうけれど、長い時間をかければほとんど忘れることすら出来るかもしれない。例えば、先日は牛丼がなくなると言って大騒ぎになっていたが、多分一ヶ月も経てば話題にも上らなくなる。
有体の意見だが、慣れること、そして忘れることは人間の最大の強みでもあり弱みでもあると常々思っている。車に乗って足腰が弱るとしても誰もが車を購入するように、誰もが IT の存在を自然に感じて時には中毒になる程に、言い換えればそれだけ慣れさせることが出来る程に IT と呼ばれるものを普及させたことは業界にとって大成功だった。が、当然これからは成熟業種の例に漏れず、慣れの壁を打破するような強烈なインパクトが必要になってくる。一般コンシューマを新たな概念で開拓するという、旧来の業種ではもはやなし得なかったことが出来るのではないかと考え、僕はこの業界に飛び込んだわけだが、もはやそれは幻想だろうということを今さら改めて認識した。
後悔しても仕方がないので、とりあえずは blog が今年の終わりに普及しているくらいのレベルでその次の次に普及する物を予想して、それに参加できるような立ち位置に届くよう努力したい。