世の理とはいえ

普段は年甲斐もなく派手な頭に柄のよろしくない服を着ている。それなのに、今年は春にフォーマルウェアをオーダーしてからというもの、ほぼ毎月と言っていいほどやたらとスーツ屋に通わざるを得ない事態が続き、顔を覚えられてしまった。

去年の松の内に友人が世を去り、秋によくしていただいた先輩が突然死されてしまい、今月は後輩が過日亡くなっていたことを聞き及び、今日弔問に伺った。

子供のころにイメージしていた30代半ばは、これほど弔事が多いものではなかった。けれど、今の世の中、会社に勤めていても事業をやっていたとしても、働いている者は金回りの中心にいる誰かの作った仕組みの燃料なのだと思う。身の回りでは文字通り命を削って燃やし続けて、早くに燃え尽きてしまったり、ふとした風で立ち消えてしまったりしている人を大勢見てきた。

七年前の今頃以来、順序に理不尽を感じることこそあれ、こういう残酷なことが当たり前に転がっているのが世の理だと諦めてしまうようになった。涙の出る量は減ったかもしれないけれど身体にダメージが蓄積していくのを感じる。それでもなお、残された者は自分なりに精一杯生きねば。無論、彼ら彼女らは自分たちみたいに無理はし過ぎるなと言うだろうから、心身がともに健康である範囲で。