バトン滞留

時間がなくて全然ちゃんとしたエントリーが書けないので、一旦手持ちのバトンを整理しようと思う。後日書きます。
・青春(学校)バトン
・思いでバトン
・恋愛バトン
・フェチバトン
他、なんだっけ?
抜けてたら教えてください。

身体が弱い

三連休を全部使えると当てにしていたけれど、初日に深夜に病院に急行する羽目になり全部予定が狂った。もう少し身体が強くないと本当に駄目だ。一応無駄な努力はしてみるけれど、これでさらに悪化する結果にならなければ良いんだが。タイムリミットは近い。

多分大丈夫

本音と建前の両方を使い分けるのは日本の大人の嗜みだから、僕も二つの線の上で物を考えるようになった。
目をつぶったり耳を塞いだりして、大人のふりをするのが一番親切なのかも知れない。現実的に何か嬉しいことを毎日寄与していけるかと言われると返す言葉がない。例えば朝起きてスクランブルエッグを食べてみる生活とか、憧れるのだけれど実現できない。
だからと言って、自分から手を振り払うつもりはなくて、届く範囲にあるのなら手元に引き寄せておきたい。なんて我儘なんだろうと思う。今の仕事、生活パターン、優先順位を変えずに何かを手に入れようと考えていること自体がずるいことだし、運に任せて何か良いことが起きるわけもない。走って追いかけて行かなければならないのかも知れないけれど、全てを捨てて走っていったところでその時点で僕には価値が残されているのだろうか。
現時点では、そうすることがベストではないと感じるので、僕は現状のまま努力して成果を上げる方が先だと判断している。その結果遠くで何かが起こったとして、それは自分が選んだ結果なので、その結果を見て次の行動を考えるしかないのだと思う。一度繋いだ人間関係を意識的に切るのは今までずっと極端に苦手だったので、口も利けなくなるとか、一切音信不通にしなければならないとかいった、取り返しのつかないことにならなければ良いんだけれど。そうではなくて、例えば一緒に歌が歌えたりするのなら、今は多分大丈夫。焦り始める時期になったら、まだわからないけれど。

行き倒れ

今朝目覚めたのは駅から家に帰る途中の道の真ん中だった。
3時半頃まで駅前のバーで飲んでいたんだけれど、そこから歩いて1分のところで寝ているのは何故なんだろう。
頭の近くには半分食べたコンビニ牛丼。まあ普通に見れば行き倒れだろうな。
朝6時過ぎ、ラジオ体操に行く途中だったというご老人が殴られて失神している人間だと思ったらしく、救急車を呼んでくれていた。救急車を呼ぶか? と聞かれてはいと答えたらしいけれど、多分質問が何かなんて考えず、とりあえず何でもよいからはいとだけ答えたんだろう。救急隊には昨日成田に着いたばかりで時差呆けで酒を飲んだら寝てしまっていたと答えておいた。
今朝は涼しかったので自宅で寝るよりも快適な目覚めだった。
その前の晩は会社の会議室の床でそれなりに快適に眠れたし、実は自分には布団なんか要らないんじゃないかと思う。

正念場 (2005年度)

多分これから10月頭までが仕事の面では今年の正念場なのだろう。
明日の午後4時までにやらなければならないこと、翌日中にやらなければならないこと、いずれもクリティカルな締め切りを持ち、しかもそれをやらなければ周囲に著しく迷惑がかかる。
頼むから何もこれ以上降って来るな。徹夜しても食い切れない。

ヨウリョウ

今週2回会社に泊まって、1回休出して、1回倒れて午前半休。何て能率が悪いんだ。この程度なら、普通の人なら毎日平均的に時間を割り振って適当にやっていけるんじゃないのかな。好きな飲み会も断り続け、とにかく働いてないと許されない、という気分。
確かに仕事は滞っている。紛れもなく。これは単に要領が悪いのか、もはや自分のこなせる仕事の容量(キャパ)を超えてしまっているのか。以前はもう少し手際よく、かつ無尽蔵な体力でオーバードライブ出来たと思うんだけれど、もう歳なんだろうか。

日常再び

9月に入って2日代休の後2連続遅刻。明日こそはまともに出勤しよう。
0時14分職場発の電車に乗って帰って、ちょっと片づけをするともうこの時間。期末進行は毎回こうだ。もう少し線表通りに作業できないものか。

抽象的な感想

具体的に感想を述べることが許されていないようなので、あくまでも抽象的にこの4日間に思ったことを書く。
こなすべき儀礼的な事を一旦終わらせ、時間を気にせずにどうでもいいようなことを話す時間を共有してみた。そうやって無駄とも思える時間の使い方をして、お互いの人間臭い部分を知った上でこそ仲良くなれるのだと確認する。ここ数日、実家付近の携帯も通じない場所に戻ってみて、日常生活では滅多にそれが実現できていないことを実感したのが残念なところではある。
古い友人と久しぶりに遊ぶのは楽しい。友人の友人と仲良くなって人間関係が広がるのも楽しい。僕は上下の年齢差をあまり考えず馴れ馴れしくするし、相手方にもそうしてもらいたいと願う。なぜかいつも若干距離を測られてしまうけれど。
そのうちどれだけの人とこれから先どれほどの間付き合っていくのかは、もちろんどちらも全く知り得ない。いつも、会うのは今回のこれが最後なんじゃないかと思って会話を詰め込むきらいがある。それが鬱陶しく思われていないかはいつも気にしているけれど、人の話を聞いてそれを膨らませて返す行為が好きなので、ついいつものパターンを繰り返してしまう。
人や場所や共同体が知らない間に姿を変えていることがある。もしそれが自分にとって許せないことであったとしても、僕はそこに顔を出すのをやめるだけで、相手に元の姿を維持するのを強制することは望まない。相手の都合や意思は自分と同じくらい尊重されるべきだから。それが客観的に見て相手の損になる場合は助言してみる。受け入れられることを強要したりはしない。自分がそこに受け入れられているだけでも幸せなのだから。
今必要なのは、自分が必要とされているか、嫌悪されているが口に出していないのか、唾棄あるいは無視すべき存在とみなされているかを直感で正しく把握する能力。もう少し色々な人と深く付き合って、自分と相性が会ったり、言葉数を並べなくても意思が通じたり、相手方から自分を必要としてくれたりするような関係を増やしていければと思う。
嘘をついて起伏があるように見せなければならない人生は嫌だ。いつもそれなりのイベントが絶えない生活を求めて、必要ならばどこまででも行く。忙しいというのを言い訳にして、灰色に塗り固める必要は本当はないはずだ。イベントは共有した方が楽しいと思うので、何にでも誘ってもらいたい。過去に辛いことや恥ずかしいことがあったのは今日や明日で上塗りすればいいので、残りの毎日を贅沢に飾って行こうかなどと思う。

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