死後も人格を尊重すること

ベルヌ条約の本義は知らないけれど、著作権は作者の死後も何十年間、長く留保される。遺族に遺せるとか、出版社が飯の種を簡単に捨てたくないとかの下世話な理由もあるだろうけれど、死後の権利を認めようと考える出発点は、死後も著者の人格を尊重して約束を守りたいという気持ちの具現であってほしい。甘え過ぎだろうか。

株式会社の経営判断めいた合理性を追求すれば、亡くなった人と何かを約束していたとしても、それを果たさない事を本人は検証できないので、反故にすることによる社会的リスクのない約束を履行するコストは削減せよと言われるかも知れない。宗教的で不合理と見なされるかも知れないが、僕はそうしたくない。

悪人が死んだとしてもざまあなんて絶対言いたくない。そもそも詳しく知らない人だとなおさらだ。その人物にもその人生があって、何かの理由がある。同情もしないけれど、反論できない人を罵倒したくない。

けなしおとしめ、そねみ軽んじるのは簡単だけれど、自分の死後に置き換えてみて何か思うところはないんだろうか。自分の死んだ後なんか知ったこっちゃないんだろうか。親になれば死んだ子の歳を数えたりもする気持ちもわかるのかも知れないけれど、子育てをリスクとしか見なさない人も増えているくらいだし、ますます世知辛くなっていくんだろう。

何が言いたいのか今一つまとまらなかったけれど、例えばCoccoの「遺書」に泣きそうな程共感していたとか、たったそれだけであったとしても、せめて歌を借りた約束を守る事で僕は敬意を表したい。