1755/10479

とても寒い日に生まれ、小さな頃から病弱な身体をだましだまし必死で生き続けて、10479回目の朝日を見ることなく静かに息をするのをやめてしまったみさへ。
僕は「その人の記憶が、生きている人の心の中にある間はその人は生きている。みんなの心の中からその記憶が消え去ってしまったときに初めて、その人はこの世から消えてしまうのだ」という考え方を信じている。だから、みさと僕しか知らなかったかも知れないことや、いつか僕もディテールを忘れてしまうかも知れないこと、遺品の手帳に書かれていたことなんかを書き遺すことで、みさを知る全ての人の心に可能な限りみさの姿を伝えておきたいと思う。もう一度あなたに死なれることがないように。


あれから毎日、懺悔している。
23歳まで人一倍努力して努力してそれがようやく結実するところだったけれど、心無い人に成果を盗まれてみさは不本意ながら大学院を去ることになった。僕らが出会ったのはその頃だった。自分のサイトのお客さんだったみさから Wish for you という曲が突然メールで届いた。僕がそれを30分ほどで編曲して送り返したところいたく感激され、それからほどなく仲良くなったのを覚えている。
しかし付き合い始めて一ヵ月後、その半年前から違和感を感じていた胸の検査に行ってから癌との闘いが始まった。一度手術をしても検査はやまず、また次の手術が来るという繰り返しで、いつしか人生への絶望感から心に深い傷を追い、みさの心は少し壊れてしまった。
それでも小康状態の時には、件の Wish for you をはじめ幾つかの曲を録音したり、数年前までは僕らが出会う前からみさが活動していたバンドで一緒に活動していたりした。けれどあまりにも調子が悪くなり、いつ頃からかみさには本当に何もする体力がなくなってしまった。その頃は僕の会社がつぶれそうだったので、あまりみさをフォローすることも出来なかった。そして誰にも会えない日々が続き、薬剤師だったからこそか薬に頼り、そのうち溺れるように薬を大量に飲み始めた。その頃には境界型人格障害との病名もついていた。他にも全身の至るところの臓器が悲鳴を上げ、年に何度も入院するようになった。道で急に倒れて病院に担ぎ込まれることも増えた。
体調が悪いから薬を飲んでいるのか、薬を飲んでいるから体調が悪いのかわからない日々。長い長いトンネル、みさの言葉を借りれば壊れたラジオだった時期が続き、一切の日本語の会話が通じなくなったり、風呂が爆発したり警察沙汰になったり救急車を年に20回以上呼ぶなど、でたらめな事件が相次いだ。今から考えてみれば、その頃既に共依存になっていた僕もやわらかに傷を負い続け、同じく心を病んでいた。ある時の事件で、このままでは仕事を続けることも寧ろ単に人間らしい生活も出来なくなる、と僕は限界を感じ、疲れ果てた手を解き突き放すようになってしまった。(その頃のことについては別途書く)
多分それからはみさと僕はほとんど音楽でしか話が合わなくなった。喧嘩や怒鳴りあいが続き、みさは次第に自分なんかこの世にいない方がいいんだと思うようになってしまっていたんだと思う。僕が楽な方に流れるのを見るたびに血を流していたんだろう。みさが「式場はどこにしよう?ドレスを選ぶの手伝って」と言うのに対して、僕は「何で今この関係でみさと結婚しなければならないんだ」と答え、何度も「私は死にます、こうじが背中を押したんだ」という言葉を聞いて、自殺未遂で担ぎ込まれた病院に引き取りに行くことになった。
でも今年の6月の終わり、壊れたラジオは突然治り、みさは急に前向きになった。薬剤師として社会復帰に向けて歩き始めたようにも見えた。でもそれは少しか、だいぶ遅すぎた。僕は元のように「みさを愛してやまないんだ」等と口走ることはできなかったし、なぜキスしたり抱き締めたりしてくれないんだと言われても、今はもう前ほど好きではないからだとしか言えなかった。みさが現れて努力するからチャンスをくれと言う度に、期待はするなと繰り返していた。重い鬱病の相手を完全に撥ね付けるとその場でまた自殺を試みそうで、それが嫌で怖くて決定的な強い言葉は口にしなかった。
今さら何を言っても言い訳なのだけれど、僕には結局甲斐性がなかっただけで、みさの事が心から嫌いになったわけではなかった。それを受け入れることと混乱した生活を天秤にかけるような、ずるい打算で距離を置こうとしていただけだった。最後の最後まで僕のことをただひたすらに愛し、子供が親を慕うように好きでいてくれたみさに僕が最後に伝えた言葉は「このままだと本当に嫌いになってしまうから、また実家に帰れ」だった。その時みさは、本当に悲しい顔をした。
最後の数日、みさは一時期飲むのをやめていた精神薬をまた多めに飲み続けたらしく、最後に話した時には、僕には何を言っているか判らないほど呂律が回らない状態だった。「何を言っているか判らないから、続きは明日話そう」と言って寝てもらうことにした。夜中に確認したらうつぶせで寝ていた。クーラーがよく効いていたので布団を顔半分くらいまで持ち上げた。やたらイビキがうるさかった。(この時既に昏睡状態だったのかもしれないと後で指摘された)
そして8月20日の朝、みさは起きてこなかった。
あれだけキスしたがっていたみさの唇がやっと僕に触れたのは、魂が抜けた後の人工呼吸の時になってからだった。何度息を吹き込んでも効果はなかった。身体はまだやわらかかったけれど、顎だけは既に固くなっていた。心臓マッサージやAEDも効き目はなく逝ってしまった。
僕は自分が布団をかけたことで窒息させて殺してしまったと思い、警察と病院にそう申し出た。しかし、司法解剖の結果は窒息死でも服毒自殺でもなく「急性薬物中毒」だった。所見に基づく推測では、長年強い薬を使っていたために肝臓が既にぼろぼろで処方されている常用量でも耐えられなかったのではないか、もしくは同時に飲んではならない複数の薬が体内に蓄積されていて、飲み合わせによる副作用ではないかと言うことだった。今もってはっきりとした遺書は見つかっていないし、確実な本当のところはわかってはいないけれど。
長野からお父様と親族が駆けつけられ、とても簡単な式だったけれどみさは横浜で荼毘に付され、上田に帰っていった。急なことだったのに友達が大勢集まり悼んでくれた。僕が死ぬ時は、果たしてあんなに惜しみ悲しんでもらえるのだろうか。お父様が「覚悟はしていたけれどこんなに辛いとは思わなかった。親はただ生きてさえいてくれればよかった」と泣かれていたのが今も耳から離れない。僕はただ「申し訳ありませんでした。許してください」としかいえなかった。
しばらく何も手につける気が起きなかった。失ってしまうと、あれほど怒鳴りあっていても、楽しかったことや良かったことしか思い出さない。何を考えても涙が出た。ただひたすら申し訳ないと感じた。無理して3日目から仕事に出るようにして、また毎日嫌がらせのように電話で話を聞いてもらったりして、日常に戻る努力を続けた。
あれから4週間が経って、何とかだましだまし仕事だけはできるようになってきた。
マスターに誘われて行きつけのバー Muddy’s のライブイベントに行った。正月以来ライブには行っていなかったが顔ぶれは前と変わらず、Rambling Fellows, 悠の弾き語り、そして Muddy’s Band という面々だった。前にライブに来た時はまだ美沙は生きていて、いつかうちのバンドでもライブに出ようとか言っていたのを思い出すと、我慢してもまた涙が出た。そんなところで悠が Leonard Cohen の Hallelujah を歌う。若くして死んだ Jeff Buckley がカバーしていたように、静かに歌う。
“Maybe there’s a God above,
As for me, all I’ve ever seemed to learn from love
Is how to shoot at someone who outdrew you.
Yeah but it’s not a complaint that you hear tonight,
It’s not the laughter of someone who claims to have seen the light
No it’s a cold and it’s a very lonely Hallelujah.
Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah.”
みさがその人生を通して、僕に伝え遺したかったことの一つは、命を賭けてまで人を愛する事の真剣さと強さだったかもしれない。今もって後悔は限りないけれど、みさの座右の銘「一期一会」の気持ちでずっと僕も過ごしていたなら、もう少しお互い救われていたのかもしれない。
もう一つ、僕に本当の意味の別れを教えてくれたのかもしれない。僕にとって「別れ」は恋人の関係を止めるという意味だけしか持っていなかったのだけれど、命を賭けて人を愛する人にとっては、別れると言われることが今の僕が感じているのと同じ痛みとなっていたんだろう。
僕はそれを強く強く肝に銘じて、自分の生きている限りその渡されたバトンを持って前に進まなければならない。
「天高く神はおわすかもしれない 
けれど僕が愛から学んだのはどうすれば撃たれる前に撃てるかということだけだ
今夜君が聴くのは不平ではない
光に導かれてきた巡礼者の嘲声ですらない
冷たく孤独なハレルヤなんだ」
みさの人生は特にその最期に近いところで、全く本人の望みどおりにはならなかった。僕はみさの願いを叶えられなかった。悩みの全てが恋愛関係ではないにせよ、もちろん直接手を下して殺していないにせよ、悲しみにくれて心を痛め、やめていた薬に再び手を出させてしまったのは僕の言動によるところが大きい。知り合って1755日のうち、本当に幸せだったのは何日だったのか。もっと幸せな人生を送ってもらうことができたのではないか。
僕のこれからの人生には、そうやって一人の人生を奪ってまで得るべき何かがあったのだろうか。まだ答えは出ていない。一人の時間に必死で考えて、日々の行動で最善を尽くすのが当面の僕の努めだと思う。

“1755/10479” への6件の返信

  1. 今となっては、彼女みずから望んで死へ向かい、
    そして思いを遂げたんだと思わずにはいられません。
    想像を越えた苦しみと絶望の中にあって、
    かすかな生の希望すら無情にも奪われてしまったと考えるのは、
    とても耐え難いことだからです。
    死を選び取ろうとすることがこの上なく哀しいということも、
    これが草薙君の傷痕をえぐる行為だということもわかっています。
    「あの子もこれでようやく楽になった」
    葬儀のときに聞いたご家族の方の言葉は、あまりに重く、悲しかった。

  2. 究極の愛の形は死想だと常々言っていたので、確かに願いはあったのかも知れません。
    ただ、意図があったにしては飲んでいた量が少なかったようです。今思えば、5日前に病院で原因不明の失神をして何とか蘇生していたことも関係があったかも知れません。
    最後に話した内容も、上述以外では「凛として時雨や年末の筋肉少女帯のライブに行かないか」と言うチケットと日程の話や「来週まきちゃんと遊ぶんだ」ともありました。その時だけ見ればこの結果は本当に想像がつきませんでした。
    事件発生→喧嘩して実家に帰れと言う→帰る→今度は実家で問題→また現れる→事件、と言う流れ自体何年も繰り返していて、状況に対して慣れと甘えがありました。
    みさの受け取り方が僕とはだいぶ違っていたのに、返す返す情けないです。みさの日記を生前には読んだ事もありませんでした。ただ情けなく悔しいです。

  3. ご無沙汰してます。
    美沙ちゃんの身体と精神は、限界だったんだと思いました。
    ちょっと前に、常用してる薬の名前を見て、そう思いました。
    もっと早く気づいてあげたかったです。

  4. 私も昨年、10年来の親友に先立たれました。海外の学会中に遅れて訃報を聞き、何も出来なかったことを覚えています。
    彼が自ら死を選んだ時遠方にいたことを悔やんだものですが、結局私には彼の人生を救う力などなかったことに気が付きました。
    薙君の場合はまた少し違うのでしょうが、一人の大人の人生の決着は本人にしかつけられない、という意味で、今では彼の選択を受け入れています。残念な気持ちには変わりないけれど。

  5. 書いてくれてありがとうございます。
    情けないことに、しばらくたってから知ることになったので実感がありませんでしたが、少し現実が見えました。
    misaちゃんが生きていけるように僕も生きていきます。
    ほかの人でなく、貴方しかできなかった1755日をこれからも大切にしてください。

  6. はじめて書き込みをします。
    悲しいお話に泣きました。さぞ御辛かったことでしょう。
    私の好きなバンド、「チリヌルヲワカ」に「なずき」という曲があります。http://www.clubdam.com/dam/leaf/articleCdLeaf.do?contentsId=3594917よかったら聴いてみて下さい。先日久しぶりに聴いたらお二人のお話を思い出しました。

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