全然身に覚えのない延滞請求 キタ━━━━━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━━━━━!!
1 月から社保に入っているはずなのに、3 月度 (2 月分) の国保未払いの請求が区役所から来た。社保はちゃんと入っているはずなのに何故なんだろう。こういうのって会社の経理じゃなくて自分が手続きするものだっただろうか? 普通は会社がやってくれるはずだった気がするけれど。
ともあれ、2 万円は痛いので今日問い合わせる予定。
住民税
突然、去年の 2 月まで住んでいた東京都の板橋区役所から住民税の請求が来た。
平成 15 年度の住民税が前の会社の給与からの控除で年度の一部しか払われていないため、残りが通常請求に回ってきたとの事。でも、新しい会社の給与からも住民税は落ちてるはずなので、無職だった 3 ヶ月分以外に追徴が来るのはちょっと理解出来ない。二重取りではないのだろうか。
あとは、未払いとされている期間が長すぎるのも理解出来ない。未払いは 9 ヶ月分の額となっている。会社が潰れたのは 9 月末だから、なぜ年度の 3 ヶ月分しか払われていないのだろうか。控除されていた分から考えると、やはり二重取りではないのかと思ってしまう。
このあたりの仕組みは、よくわからない。
包装
妄言
どん底
昨日に引き続きうさこ社長ヲチを決め込んでいるわけだが、「どん底の経験ってありますか?」 というのは難しい質問だと思う。
うさこ氏は以前に本当のどん底を経験したことがあるらしく、その時に比べたら今はマシだからまだ大丈夫だという。それに引き換え、僕は比較的怠惰に自分に優しく人に甘えた人生を送ってきたものだから、ある程度歳を取って責任から逃れられなくなってきて初めて地獄を見るようになってきた気がする。というのも、ここ数年、これが本当の底かと思ったらまだその先に転落していくように、どんどんシビアな状況が重なって来ているから。これから先、どうせもっと追い込まれて行くのなら、まだ今のうちに人生を楽しんでおけたら後悔しないのではないかと思う。
僕のどん底はきっとまだこの先にあって、その時に耐え切れるように今は自分を鍛える段階だと思う。どんなひどい状況になるのかは知らない。真冬に道端で寝ている人の数を見ろ。線路に散らばる肉の欠片になる敗残兵の残骸を見ろ。僕はきっとまだずっと幸せだ。
底の時期を乗り切った後に、親しい友人と呑底(どんぞこ)ででもささやかな打ち上げが出来れば、それだけで僕は自分の価値観では勝ち組なんじゃないかと思える。今はただ、河原で石を積み上げるのみ。
喪失
ハナイ氏の御尊父様がお亡くなりになられたとのこと。謹んでお悔やみを申し上げます。
紋切り型の言葉以上に何を伝えようとしても、blog の形でだと失礼にしかならないような気がするので、後日改めて何らかの形で伝えたいと思います。
読ませてもらって、公開出来る事を整理して読者に直接の痛みを覚えさせない程度のオブラートに包んだ上で、ハナイ氏は何か少し申し訳なさそうに掲載したんではないかとすら思えた。わずか一週間で僕ならそこまで自分の面倒を見られるだろうか。
7 年前、自分の唯一の理解者だと思っていた祖父が永眠した際には、従兄弟中で一番年上であるにも関わらず、葬儀の最中に僕は臆面もなく号泣した。そういった場面では、感情をコントロールせずに垂れ流しにしているのが一番楽だ。付き合わされる周りはたまったものではないだろうが。
ハナイ氏の引いている
「その人の記憶が、生きている人の心の中にある間はその人は生きている。みんなの心の中からその記憶が消え去ってしまったときに初めて、その人はこの世から消えてしまうのだ」
という言葉は僕の死生観ともおよそ共通する。先立つ者の事を語り継ぐことで心の中にその人物が生き続けるというのは宗教的かも知れないが、故人と近しい間柄の者同士で故人のことを語っている時には、あたかも生きているその人物の噂話をしているかのように錯覚することすらある。特に、故人を想起させる媒体がある場合にはそれが顕著である気がする。それは、故人の偉業の記録であったり、芸術家であればその作品であったり。例えば作曲家は死んでしまっても優れた曲は世に残る。その曲が存在することで、故人の生きていた痕跡は歴然としている。決して故人が戻ってくることはないが、最も故人の存在を意識することが出来るのが媒体を通した記憶の中だ。
誰かを失ったときには、これまで本人から与えられていた数々のいわゆる存在証明を、自らの記憶の中に求めるよう切り替える作業が最も大変なのだと思う。とはいえ、心構えをしておいて備えられる種類のことではなく、自分にそれが起きた際には冷静に対処できる自信はない。遠い存在の人ならいざ知らず、身近な人であればあるほど、我々はその存在を当たり前のものとして受け止めてしまっているだろうから。
今日、僕は身近で大切な人をハナイ氏とは別の意味で失った。けれどハナイ氏の姿に倣い、それを事実として捉え、前向きに進んでいくことが今の僕にも必要なことだと思う。今日は僕自身が混乱していて、何か意味のある結論を導き出せなかったけれど、追々考えて行こうと思う。