今年は全てにおいてなにもかも中途半端で遅すぎた一年だった。
来年は気をつけよう。
多分元旦から何かありそうだけど。
祖父は酸っぱいからという理由で苺が嫌いだった。
苺を見ると、食欲と性欲の区別がつかない人を想起させられる。女子限定。多くの男子は自分で苺と名乗ったりしない。自分を苺に擬える人は、苺の赤い部分は果実ではなくて、表面に散らされた小さな種を食べさせるための囮である事に気付いているのだろうか。
玉葱4個とニンニク3片、塩とナツメグとセージで揉んでおいた鶏肉300gをオリーブオイルでよく炒め、白菜4分の1を加えて蒸し焼きした後で、ブイヨン500cc、エリンギ・マイタケ各1パック、白葱1本、タイム、オレガノ、ローズマリーを投入。数十分煮込み白菜が溶けた後で塩、黒胡椒、カイエンペッパーで味を整えた。
せっかく平日にしては真面目に夕食を作ったのに、米を炊き忘れていて、仕方なくこれをうどんにかけて食す。一気に謎料理。
今日は緑黄色野菜を追加しようと思う。
自分で読み返してもなかなかひどいと思ったので新しいエントリで埋めてしまう。
縮毛矯正をやめて髪を伐採し、地毛に戻そうと思った。しかし違和感を感じ、紫に染めたりしてみた。でも三ヶ月経ってまた今日縮毛矯正した。堂々巡り。一体何がしたいのか。生活の他の部分をも象徴しているようだ。
違和感。
一枚膜を挟んだその向こうで何かが起こっているのを見ている感じ。
非現実感。
痛い辛い悲しいと喚く自分を人形劇か二人羽織で後ろから見ている感じ。
ひどい時には僕の体温はこの世には存在しないかもしれないと思う。虚数なら自乗しないと実数にならない。感じる温度が異次元に届くベクトルのこの四次元への射影だったら、残りの方角には何があるんだろう。
もういいや。
ハロー僕は四次元から来た!
xyzとtの奴隷!
今日も中二病。
一昨日チャイナさんとヴォァアアァァの人と話していて思ったのだが、病気の類が寛解し、言動を改められたとしても、その後一年や二年の禊ぎでは上の方々には許してもらえないであろう気がしてきた。良くて緩慢な死亡フラグか。面と向かって反逆的なわけではないが、本来期待されるよりも生産性が低いだけでも間接的な裏切りではある。累積した結果は消せない。切り詰めても食べるので精一杯で、ボーナスで貯金するしかない感じ。でも、12四半期の在籍で8段階も昇らせてもらっているんだから御の字なのだ。今の環境に自分を置き続けるならこの辺が平衡なのかも知れない。
身内でも2chなんかを見ても「俺は世間に何も求めない代わりに世間にも何も期待しない。どこにも参加したくない。望んで生まれたわけでもない。さあ俺を殺せ」と言っている人が多いという話をした。世間にも身の回りにも信用できる人がいなければそりゃそうかとも思う。何のために生きてるのかなんて誰にもわからないし。しかし食べていくのに精一杯というのは不健全な話だ。例えば何かがあって突然死んでしまったとしたら会社から2500万の弔慰金が下りる。しかしよく考えたら今のペースだと一生必死で働いてもそんな額の貯金は出来そうにはない。個人で掛けている生命保険も考えると、一番たくさんの金銭の蓄えを遺す手段は何かあって死んでしまう事なんだよな。会社では最近誰にでも出来る駒の業務しかしていないので迷惑にもならないだろう。
生きていたらそれだけのために多くを消費する。誰かが起こした事故の被害者になれば賠償で更にドラが乗ってくる。拝金主義に毒されたら人生の価値なんてそんなもんだ。そういう愚かな考えを打ち消すためにも、守るべき誰かがいて自分にしか出来ない事で真価を問う事が必要なんだと思う。ならどうすればいいのかなんて初めからわかっているじゃないか。
What was I? It was up to you.
What was I? It was up to you.
帰り道、頭の中でこのフレーズがリフレインを作って流れて、3弦開放をペダルに4弦が移動するディストーションギターが流れ込んできて、Sonic Youth の Tunic (Song for Caren)を更にペシミスティックにした、少し Joe Satriani の I am become death のような音階がただBPM130前後の8分音符で刻まれた。
G – G – G – G – G – G – G – G –
A – G – F#- G – Eb- Eb- D – F-D
コードで言うとこんな感じか。
Gmadd9 Gm Cm(#11) Cm Eb(#11) EbM7 Gm Gm7
ここ2週間ほど体調が悪く、少し油断すると6年前に患った顔面神経麻痺が再発しそうな雰囲気。勤務制限と薬で抑えてはいるけれど。だから最近あまりちゃんと声が出なかったり、まともなギターが弾けなかったりするのだろうか。望むには幼い時には有り余っていたのに望む頃にはいざ知らず。
でも仕方ない。どんな人生を望んでどんな無謀な努力をしていたとしても、そんなことは誰にとってもどうでもいい事だろう。今自分以外の誰かに見える結果が全てなのだから、見えていないところは全部どこかにしまっておいて、exist と be と realize が同格だと宣言して、たゆたってみようかと思った。誰かがそう思うんだったらそうなのだ。過去にそうであったと決めるのは他人の多くで、評価は委ねるしかない。それが集合知であり、衆愚であり、運命なのかもしれない。
よくわからないけれど、降ってきたものは有効に使おうと思うのでメモ。
中二病である。
星里もちるのいうところの「いいかげんだけど責任感が強い」と評価される事に憧れて育ったけれど、いつの頃か成果よりも形式を重んじる企業はそう言う人間を必要としていないことに気付いた。
自分が約束の時刻が守れないのは昔から嫌いだ。さすがに仕事に穴は開けないが、遊びや飲みの約束はしばしば反古にする。努力の形として徹夜して翌朝に備えても、そういう時に限り数分遅れてしまったりする。呆れる他ない。
自己嫌悪しても仕方ないが、少なくとも鉄道会社のような定時性が優先される仕事には全く向いていないと思う。体調を崩す事も多いし。だから時間を切り売りするのではなく成果主義を謳う会社を選んだはずなのだけれど、3年前の自分は多分眼が悪かったのだろう。そんな事は本質じゃなかった。
よく考えたら、大企業の主目的は株主に配当することだ。一般顧客から利益を計上する本業の部分は手段にしか過ぎない。そして寡占市場で絶対的優位を押さえているのなら、手段にコストはかけず、問題さえ起こさねばよい。手順が正しければよい。
揚げ足を取らせたら負けなのだ。愚直に言うなら、ある期間で回すべき歯車をさっさと大量に回してたまに手を抜くようなむらがあるタイプではなく、周りが回すのに合わせて手を沿えている方が望ましい。成果主義とは何かを成し遂げた者に報いる制度ではなく、出る杭や落ちこぼれをデモートし振るい落とす制度である。
そういえば、今も昔も政治家や投資家が学び振りかざすのは帝王学でありレバレッジの経済学であり、支配階級の論理。経営者はその従順なる僕、労働者はさらなる僕。現場は目の前のお客様に良いサービスをと考えても、僕である以上は上の方針が優先してしまう。
営利企業に勤める意味とは何なのだろう。判っている。自分に何が出来るのかを考えている時点で負けなのだ。自分はどれだけの数の誰を使役することで何をさせられるかを考えるべきだったんだ。
少し疲れた。