世の理とはいえ

普段は年甲斐もなく派手な頭に柄のよろしくない服を着ている。それなのに、今年は春にフォーマルウェアをオーダーしてからというもの、ほぼ毎月と言っていいほどやたらとスーツ屋に通わざるを得ない事態が続き、顔を覚えられてしまった。

去年の松の内に友人が世を去り、秋によくしていただいた先輩が突然死されてしまい、今月は後輩が過日亡くなっていたことを聞き及び、今日弔問に伺った。

子供のころにイメージしていた30代半ばは、これほど弔事が多いものではなかった。けれど、今の世の中、会社に勤めていても事業をやっていたとしても、働いている者は金回りの中心にいる誰かの作った仕組みの燃料なのだと思う。身の回りでは文字通り命を削って燃やし続けて、早くに燃え尽きてしまったり、ふとした風で立ち消えてしまったりしている人を大勢見てきた。

七年前の今頃以来、順序に理不尽を感じることこそあれ、こういう残酷なことが当たり前に転がっているのが世の理だと諦めてしまうようになった。涙の出る量は減ったかもしれないけれど身体にダメージが蓄積していくのを感じる。それでもなお、残された者は自分なりに精一杯生きねば。無論、彼ら彼女らは自分たちみたいに無理はし過ぎるなと言うだろうから、心身がともに健康である範囲で。

旧友の死

年明け早々、旧友が亡くなったことを知った。
直接連絡が届く前にネットのニュースで見たので驚き、何かの間違いではないかと思ったが、テレビ各局のニュースや全国紙でも一様に同じ内容の報道があった。

とても混乱した。
彼の名前と死という言葉が現実のものとして結びつくまでに時間がかかった。

悲しいというよりも残念で、悔しいという感情が先に出てきた。きっと彼は、君の見える範囲だけが全てじゃない、と言うのだろうけれど。
あれだけ自分自身も音楽のことも客観視できる人が、これからの商業音楽をどうしていくのか見てみたかった。


僕から見ると、彼を挟んで向こう側にいた中原健太郎さんが追悼文を書かれていた。
STUDIO KENT2.0 – 見えない星
時期は違うのかも知れないけれど、あまりにも思い出が似通っていて驚いた。僕の感じたことはそこにほぼ書かれてしまっていた。きっと近しい人はみんな同じように感じているのだろう。僕も京都で、彼と2人でストリートライブをしたことがあったのを覚えている。何かに出すデモでいつもと違うインスピレーションがほしいからと、夜中に突然ギターを弾きに来てくれということで朝まで付き合ったこともあった。おごるぜと言ってくれて適当に入った寿司屋があまりにまずくて爆笑したとか、変なことばかり思い出してしまう。

このブログでも、2004年2008年に、わずかながら彼の事を書いていた。
思い返すに、今につながる僕の交友関係の多くを橋渡ししてくれたのは彼を含むその周りの人脈だったし、今の働き方を選んだ判断も彼との出会いなしではありえなかった。

彼と知り合った頃の僕は誤解とトラブルが元でバンドを辞めたばかりで、それまでに知り合った音楽関係者とは縁を切ってしまっていた。学生生活もプライベートの人間関係もズタズタだった。どういった切っ掛けだったかはもう忘れてしまったけれど、彼と彼の友人が作曲サークルに紹介してくれたので、新たに尊敬する先輩や志を同じくする仲間と出会うことができた。

また、自宅であれほどレコーディング機材を揃えている同世代の人を、当時の僕は他に知らなかった。あれほどに細かく編集作業をする人も知らず、単にプレイヤーとしての経験しかなかった僕は、初めて音楽で食べていくために必要な覚悟を知った。彼の近くにいると自分の創作活動の意欲も増したけれど、彼と僕の間に才能にも気合いにも大きな差があることはすぐにわかった。そして彼ほどの人でも苦労の続く仕事を、自分のような半端者が専業でやるのは無茶では? と感じるようにすらなった。多分彼がいなければ、僕は井の中の蛙のままだったと思うけれど、結局二足の草鞋を履いて、軸足ではない方に音楽を置くことを選んだ。僕は昔からノイジーなギターが渦巻く耳障りな音楽が好きで、人の苦しみを歌った曲ばかり作っていた。この方面でなら曲はすばやくたくさん書ける。ただ、自分にはそれだけだ。自分の得意な方面の楽曲を求めるコンペはあるだろうか? どんなオーダーでもある程度以上のクオリティの曲を常に迅速に作り続けられるか? つまりはそういうことだ。

それから何年か後に、彼が僕のことを本気か冗談半分でか「スーパーソングライター」と呼んだことがあった。(その後 mixi の紹介文でまでそんなことを書いていた)
どういう意味だと尋ねたら、「僕はバラードが得意な作家を自認している。例えば暗く激しいアップテンポの曲を作ったら君には敵わないと思う。君は得意とするジャンルではそれだけの才能があるけれど、専業で音楽の道を選ばなかったのは君なりのバランス感覚なんだろうね」みたいなことを言われた。そのバランス感覚がスーパーだと。歳は1つしか違わないのになぜそんなに的確に見抜けるんだろう。たまに腹が立つこともあったけれど、そうやって何度も核心を突くような示唆をもらえたことは幸せだった。

最後に会った時にも、彼は突然「なんか顔が曲がりすぎじゃない?」と核心を突いてきた。
そう言えば最近口が開きにくいし、声があまり出ない日があるし、時々手がしびれてピックを落とすことがあると答えたら、彼はいつもと違う深刻な口調で、病院に行ってちゃんと診てもらって治療すべきだと何度も言った。後日病院行ったかと確認までしてくれた。実際に僕の肩から上はそれなりに大変なことになっていて、それから3箇所の病院に合計40回以上通い続ける羽目になった。2回の手術入院と術後治療を経て、今度の春頃にようやく完治しそうというところまでやっとこぎつけたところだった。治してみてわかったのだけれど、右目は開きにくく、右耳の音の聴こえ方がかなり変で、右手の握力も半分以下になっていた。なぜそんなに強く治療を薦めたのかを後で尋ねたところ、彼も身体の調子が悪く、一度療養のために東京を離れたりもしていたからだったということだった。僕らは歳を取ったし身体も壊れていてあの頃のように無理は利かないんだな、まあぼちぼちやってこうやと話したのを覚えている。手遅れになる前に指摘してくれたことは本当に感謝するばかり。

もったいない事に、15年前に京都で知り合ってから同じ時期に上京したあたりまでは飽きるほどに連絡を取っていたのに、同じ関東にいるのにこの10年ではたった数回しか実際には会っていない。僕の仕事が時間制約が厳しく、誘われても何度か断ることを繰り返した後に、更に忙しいであろう彼に僕の立場から声をかけることについて変な遠慮もあった。彼のアーティスト呑みに参加できる実績もないし、僕が家族を持ったということもある。最初にインターネット経由で知り合ったのでネットで連絡するだけでも違和感は全くなかった。

それでも、今更だけれど、用事を作ってでも会っておくべきだった。「手探りでもいい 生きていけばいいんだ」「唇に歌を絶やさずに微笑んで生きればいいんだよ」と、強く背中を押してくれる人が言葉どおりに強いとは限らない。自らを鼓舞していたのかも知れない。結局、直近の元旦には、気付くことができなかった。僕は彼にいくつの気付きをおくることができていたんだろうか。

残念で悔しくて、悲しい。


以下、私信です。

Dawnの帯の受け売りだけど、「生きるということは、絶えず自分の場所を確かめながら自分を表現していくこと」。最後に確かめた結果が、今回の表現だったのかな。そりゃこれから先なんて見えないし、生産性もこれからは下がってしまうだろうから、冷徹に経済合理性だけを考えたら長生きすることがリスクになる分岐点は確かにある。でも、結局どうだったのかは今も僕にはわからない。

いつか追いつけると思って、同じ方向に走ったり別の山を目指したり転んだり起き上がったりしていたけれど、結局追いつけないまま何も見せられないままだった。持たざる者としては、せめて自己紹介で「自分は○○である」と臆面もなく言えるくらいに、自分の在りようを定義できるようになってから死にたい。

蝉の人生だとしても、格好悪いことでも板につくまで、それまでは文字通り死に物狂いで走るので、どうか見守ってやってください。生前は世話になるだけなって恩返しもできなかったけれど、あまりお礼も言えなかったけれど、本当にどうもありがとう。今はどうか、心安らかに。

白く塗ろう

ユトリロと聞けば、モンマルトルの丘の白い風景を思い浮かべ、高尚な気持ちで心の安定を得る方もあるかも知れない。

僕が思うところでは、まっすぐな道の両側に灰色の同じような高さの古い団地が遠方の消失点に向かって続き、冬の曇り空がそれに蓋をして薄暗く、足元の排水溝には浅い水に溺れ死んだ魚がぷかぷかと浮き、無表情に同じ顔をした奴隷達はそれを気にする事もなく踏み潰して歩く。

なぜそんな風景を想像するのか、理由は知らない。所詮、人の感性はばらばらで、同じ言葉を発しても決してわかりあえることはなく、間違った努力で無理に理解を強制しても、お互い不幸せになるだけだ。

生きている限り後悔や反省を繰り返すようなそういう人間なので、まずは世迷い事は独り言にするとして。白い壁に白い漆喰で模様を描いて、こっそりとその凶々しさに自省しなければならない。

僕の文章や歌の中で登場人物が悩み苦しみ、時には死んでしまうのは致し方なく、別に露悪趣味でやっているわけでもないので、そういうのに興味がある方にだけ届くように表現は注意しようと思う。

それでも、わがままだとは思いますが、年に一度くらいは負のオーラを全力で表に出す日を許してください。申し訳ありません。

死後も人格を尊重すること

ベルヌ条約の本義は知らないけれど、著作権は作者の死後も何十年間、長く留保される。遺族に遺せるとか、出版社が飯の種を簡単に捨てたくないとかの下世話な理由もあるだろうけれど、死後の権利を認めようと考える出発点は、死後も著者の人格を尊重して約束を守りたいという気持ちの具現であってほしい。甘え過ぎだろうか。

株式会社の経営判断めいた合理性を追求すれば、亡くなった人と何かを約束していたとしても、それを果たさない事を本人は検証できないので、反故にすることによる社会的リスクのない約束を履行するコストは削減せよと言われるかも知れない。宗教的で不合理と見なされるかも知れないが、僕はそうしたくない。

悪人が死んだとしてもざまあなんて絶対言いたくない。そもそも詳しく知らない人だとなおさらだ。その人物にもその人生があって、何かの理由がある。同情もしないけれど、反論できない人を罵倒したくない。

けなしおとしめ、そねみ軽んじるのは簡単だけれど、自分の死後に置き換えてみて何か思うところはないんだろうか。自分の死んだ後なんか知ったこっちゃないんだろうか。親になれば死んだ子の歳を数えたりもする気持ちもわかるのかも知れないけれど、子育てをリスクとしか見なさない人も増えているくらいだし、ますます世知辛くなっていくんだろう。

何が言いたいのか今一つまとまらなかったけれど、例えばCoccoの「遺書」に泣きそうな程共感していたとか、たったそれだけであったとしても、せめて歌を借りた約束を守る事で僕は敬意を表したい。

夢の風景 (16)

久しぶりに君に会ってキスをしたけれど、お互い微妙な感じがして、ぎこちなくしか笑えなかった。
君は自分の手を見つめて白すぎると何度も口にするが、僕は君の顔色が悪すぎる事の方が気になってしょうがない。笑顔なのだけれどとても悲しそうに見える。
それに、僕はまだ君に隠していることがある。今日こそはそれを伝えなければならない。
「実は、今まで話してなかったことがあるんだ」
『なんだ? たいていの事じゃ驚かないぞ』
「聞いて気持ちのいい話じゃないかも知れないし、また悲しませる事になるかも知れない」
『……』
夏なのにやたらと涼しくて胸騒ぎがした。どこかに向かわなくてはならない気がして、それがどこなのかもわからないまま歩き回った。
結局時間切れで、また言えなかった。悲しそうな顔だけがまぶたの裏に残った。

ただ平凡に穏便に

なるべく自分の欲求よりも周囲の都合を優先して、僕の事をわかったふりで強気に出る人達に押さえつけられる事をよしとして、半笑いで生きて来ました。

やりたい事をオンタイムで実現するには、周囲を欺いてこっそりと行動するしかなかったので、秘密を作ったり、壮大な別のストーリーを作って自らそれを真実と信じて演じたりしていました。

それを長年繰り返すうちに、全てに言い訳を付けるのに疲れてきました。

虚構と実態が乖離して自らの虚言癖に悩まされたり、信用を失ったりしたので、本来の自由意志に基づいて発言し、行動するようにしました。

しかし、それまで何でもいいように言う事を聞いていた人間が反対したりするようになったことで軋轢が生まれ、自分や周囲の人が怨みを買うなどして迷惑をかけるようになってしまいました。

ただ静かに誰にも迷惑をかけずに生きたいだけなのですが、我を張る事とは相入れないのでしょうか。これは自己中なのでしょうか。怨まれずに生きる事は土台無理なのでしょうか。謝って済む事があるなら、その全てに誠心誠意お詫びします。申し訳ありませんでした。

変わること変わらないこと

昼の3時頃に雑音の多い不思議な留守電が入っていたことにしばらく後になって気付いた。コールバックしたところ先方も留守電だった。昔携帯が壊れて消えてしまったけれど、19歳から20代前半の一番の親友の番号と同じだった気がして、○○ですか?もし違ったらすみません的な伝言を入れておいた。後で携帯に久しぶりと書かれたメールが来て、子供が触ったみたいだからごめんなさいとの事だった。

連絡自体もう何年ぶりか忘れていたくらいだ。最後は結婚挨拶状だったっけか。こういう事があると合縁奇縁という表現が合う。

思い返せば僕よりも意志が強く、愚痴りながらも自己実現のためにとてつもない努力をする人だった。僕よりも早くマイルストーンを置いてくれるので、あの頃は追い掛けていればよかった。しかし12年迷い続けた分、変えたい部分と変えたくない部分はあまり望み通りに選べなかった。まるでウスバカゲロウのような運命と時間だった。

だからこそ、何年連絡を取っていなくても互いに番号もアドレスも変わってないことや、そして乳児が触ったくらいでかかる位置に今でも登録してくれていたこと等、とても小さなことでも少し嬉しかった。

夢の風景 (15)

実家の近くの小さな山から、適当な布で作ったハンググライダーもどきで飛び降りて、君と遊んだ。君のグライダーは適当すぎて前後や横にふらふら揺れて、それでもゆっくりゆっくり降下していく。
ひとしきり汗をかいて楽しんだ後、家に戻り着替えた時、君が呟いた言葉が刺さった。
『やっぱり一年経つと小さくなるだな』
「ん?着替えが?」
『私がだ。だって、私、死んでるだよ』
それは君に言ってもらう事じゃなくて、僕から伝えるべきだった。

夢の風景 (14)

右腕に暖かな重さを感じて見ると君が笑っていた。
昔から、わかりきっているのに名前を聞いて答えてもらうという、ある種のトートロジー的な儀式が二人の間にあったが、今はその答えが返ってくるだけでも感慨深かった。
東向きの部屋に差し込む朝の光の中で、君はただ、とても無邪気に笑っていた。