年明け早々、旧友が亡くなったことを知った。
直接連絡が届く前にネットのニュースで見たので驚き、何かの間違いではないかと思ったが、テレビ各局のニュースや全国紙でも一様に同じ内容の報道があった。
とても混乱した。
彼の名前と死という言葉が現実のものとして結びつくまでに時間がかかった。
悲しいというよりも残念で、悔しいという感情が先に出てきた。きっと彼は、君の見える範囲だけが全てじゃない、と言うのだろうけれど。
あれだけ自分自身も音楽のことも客観視できる人が、これからの商業音楽をどうしていくのか見てみたかった。
僕から見ると、彼を挟んで向こう側にいた中原健太郎さんが追悼文を書かれていた。
STUDIO KENT2.0 – 見えない星
時期は違うのかも知れないけれど、あまりにも思い出が似通っていて驚いた。僕の感じたことはそこにほぼ書かれてしまっていた。きっと近しい人はみんな同じように感じているのだろう。僕も京都で、彼と2人でストリートライブをしたことがあったのを覚えている。何かに出すデモでいつもと違うインスピレーションがほしいからと、夜中に突然ギターを弾きに来てくれということで朝まで付き合ったこともあった。おごるぜと言ってくれて適当に入った寿司屋があまりにまずくて爆笑したとか、変なことばかり思い出してしまう。
このブログでも、2004年と2008年に、わずかながら彼の事を書いていた。
思い返すに、今につながる僕の交友関係の多くを橋渡ししてくれたのは彼を含むその周りの人脈だったし、今の働き方を選んだ判断も彼との出会いなしではありえなかった。
彼と知り合った頃の僕は誤解とトラブルが元でバンドを辞めたばかりで、それまでに知り合った音楽関係者とは縁を切ってしまっていた。学生生活もプライベートの人間関係もズタズタだった。どういった切っ掛けだったかはもう忘れてしまったけれど、彼と彼の友人が作曲サークルに紹介してくれたので、新たに尊敬する先輩や志を同じくする仲間と出会うことができた。
また、自宅であれほどレコーディング機材を揃えている同世代の人を、当時の僕は他に知らなかった。あれほどに細かく編集作業をする人も知らず、単にプレイヤーとしての経験しかなかった僕は、初めて音楽で食べていくために必要な覚悟を知った。彼の近くにいると自分の創作活動の意欲も増したけれど、彼と僕の間に才能にも気合いにも大きな差があることはすぐにわかった。そして彼ほどの人でも苦労の続く仕事を、自分のような半端者が専業でやるのは無茶では? と感じるようにすらなった。多分彼がいなければ、僕は井の中の蛙のままだったと思うけれど、結局二足の草鞋を履いて、軸足ではない方に音楽を置くことを選んだ。僕は昔からノイジーなギターが渦巻く耳障りな音楽が好きで、人の苦しみを歌った曲ばかり作っていた。この方面でなら曲はすばやくたくさん書ける。ただ、自分にはそれだけだ。自分の得意な方面の楽曲を求めるコンペはあるだろうか? どんなオーダーでもある程度以上のクオリティの曲を常に迅速に作り続けられるか? つまりはそういうことだ。
それから何年か後に、彼が僕のことを本気か冗談半分でか「スーパーソングライター」と呼んだことがあった。(その後 mixi の紹介文でまでそんなことを書いていた)
どういう意味だと尋ねたら、「僕はバラードが得意な作家を自認している。例えば暗く激しいアップテンポの曲を作ったら君には敵わないと思う。君は得意とするジャンルではそれだけの才能があるけれど、専業で音楽の道を選ばなかったのは君なりのバランス感覚なんだろうね」みたいなことを言われた。そのバランス感覚がスーパーだと。歳は1つしか違わないのになぜそんなに的確に見抜けるんだろう。たまに腹が立つこともあったけれど、そうやって何度も核心を突くような示唆をもらえたことは幸せだった。
最後に会った時にも、彼は突然「なんか顔が曲がりすぎじゃない?」と核心を突いてきた。
そう言えば最近口が開きにくいし、声があまり出ない日があるし、時々手がしびれてピックを落とすことがあると答えたら、彼はいつもと違う深刻な口調で、病院に行ってちゃんと診てもらって治療すべきだと何度も言った。後日病院行ったかと確認までしてくれた。実際に僕の肩から上はそれなりに大変なことになっていて、それから3箇所の病院に合計40回以上通い続ける羽目になった。2回の手術入院と術後治療を経て、今度の春頃にようやく完治しそうというところまでやっとこぎつけたところだった。治してみてわかったのだけれど、右目は開きにくく、右耳の音の聴こえ方がかなり変で、右手の握力も半分以下になっていた。なぜそんなに強く治療を薦めたのかを後で尋ねたところ、彼も身体の調子が悪く、一度療養のために東京を離れたりもしていたからだったということだった。僕らは歳を取ったし身体も壊れていてあの頃のように無理は利かないんだな、まあぼちぼちやってこうやと話したのを覚えている。手遅れになる前に指摘してくれたことは本当に感謝するばかり。
もったいない事に、15年前に京都で知り合ってから同じ時期に上京したあたりまでは飽きるほどに連絡を取っていたのに、同じ関東にいるのにこの10年ではたった数回しか実際には会っていない。僕の仕事が時間制約が厳しく、誘われても何度か断ることを繰り返した後に、更に忙しいであろう彼に僕の立場から声をかけることについて変な遠慮もあった。彼のアーティスト呑みに参加できる実績もないし、僕が家族を持ったということもある。最初にインターネット経由で知り合ったのでネットで連絡するだけでも違和感は全くなかった。
それでも、今更だけれど、用事を作ってでも会っておくべきだった。「手探りでもいい 生きていけばいいんだ」「唇に歌を絶やさずに微笑んで生きればいいんだよ」と、強く背中を押してくれる人が言葉どおりに強いとは限らない。自らを鼓舞していたのかも知れない。結局、直近の元旦には、気付くことができなかった。僕は彼にいくつの気付きをおくることができていたんだろうか。
残念で悔しくて、悲しい。
以下、私信です。
Dawnの帯の受け売りだけど、「生きるということは、絶えず自分の場所を確かめながら自分を表現していくこと」。最後に確かめた結果が、今回の表現だったのかな。そりゃこれから先なんて見えないし、生産性もこれからは下がってしまうだろうから、冷徹に経済合理性だけを考えたら長生きすることがリスクになる分岐点は確かにある。でも、結局どうだったのかは今も僕にはわからない。
いつか追いつけると思って、同じ方向に走ったり別の山を目指したり転んだり起き上がったりしていたけれど、結局追いつけないまま何も見せられないままだった。持たざる者としては、せめて自己紹介で「自分は○○である」と臆面もなく言えるくらいに、自分の在りようを定義できるようになってから死にたい。
蝉の人生だとしても、格好悪いことでも板につくまで、それまでは文字通り死に物狂いで走るので、どうか見守ってやってください。生前は世話になるだけなって恩返しもできなかったけれど、あまりお礼も言えなかったけれど、本当にどうもありがとう。今はどうか、心安らかに。